創れるものは創ってみる、をやってみて感じてきたこと


ブログにお越し下さり、ありがとうございます。のんです。


(どくだみの花でチンキづくり。化粧水、虫よけ、入浴剤などになる)

 

 

新型コロナウイルスの自粛下、できるだけ、創れるものは創ってみよう、という暮らしをしてみた。

 

 

(ヨモギチンキづくり。ウォッカに浸す。)

 

創れるものは創る、ということを始めて、気づいたことがある。

 

 

(トマトのわき目を挿し木に)

 

最初は、材料は買ってきて、そこから創る、というのが私にとっての「創る」の普通だった。

安心、安全な方法で作られた材料を購入した。

便利なあらかじめ混ぜてあるようなものではなく、シンプルな材料を混ぜて作るようにしよう

というような感覚だった。

 

 

(桜の枝と、アジサイの挿し木)

 

 

でもその内、材料から創るということをやってみたくなった。

最初は、新型コロナの足音が聞こえ始めたときに、すぐに頭をよぎった

今後の「食料危機」がきっかけだった。

 

 

(ナスの赤ちゃん。ただ、この子は、もう少ししたら選定しなければならない)

 

でもやっていくうちに、見えてきたことがあった。

それは、育てるということが、とても楽しくうれしく、ときめくものだということ。

また、観察していくうちに、さらに気づいた。

どんなに手を尽くしても、この材料たちのなかで、私が「創った」といえるものは一つもないということ。

だって、土に植えた後は、勝手に育って行ってるんだもの。笑

 

 

(初めて植えたトマトに、実がなった)

 

 

自然がいつも当たり前のように、恵みを分け与えてくれていた。

種から、芽がでて、大きくなって。

そのプロセスは、大自然が粛々と行っている調和的営みであり

私はそのおすそ分けをいつも有難く頂戴しているだけなのだということ。

 

 

(手作りのミントティー。とてもおいしかったので、真似して創ることに)

 

 

だから、わたしが創ったなんて、恐れ多くて言えないなあ。

その恵みを、楽しませていただいているだけだなあ。

自然って、なんて神秘的で、しなやかで、美しくて、サイコーなんだろう。

 

 

(裏庭のドクダミで、お茶をつくる。お茶は養生にもなる)

 

 

また、今まで「買う」ことが当たり前だったものを、少し手作りしてみて

さらに気づいたことがあった。

 

 

(創るのが普通になるまでは、買ってくるのが普通だったお菓子。国産、安心の材料で作るし、創るのがたのしい)

 

 

もしも、これを材料から創っていたとしたら、一体どれだけの手間と月日がかかるのだろう。

 

 

(人生で初めて見た、種から植えた、落花生の苗)

 

 

食べるものだけじゃない。

衣服、掃除、健康維持・・・様々なことをしながら、すべてを一から作る日々は、

昔の人たちは、当たり前だった日々。気の遠くなるほどの仕事量。

朝起きてから夜寝るまでの間に、やることが山盛りだっただろうなあ。

自分一人では無理だから、周りの人たちと助け合いながら過ごすことを大事にすることが

命を守ることにもつながっていったのだろう、ということに実感がわいてくる。

 

 

(燻製や、染め物に使おうと思っている、選定後の桜の枝)

 

 

現代の生活ほどの暮らしを、

自身で維持するためには、

どれだけの労働と作業が必要なんだろう。

きっと、到底無理だ。

今の暮らしは、無理な暮らしだ。

 

 

(選定された枝からとった桜の葉を、塩漬けにしてみました)

 

 

季節のものをつかって、保存食を創っていた時に感じたこと。

昔は写真もない。

だから、季節を愛でるためにも、一年中楽しめるように工夫して過ごしていたのだろう。

一杯の桜茶を飲むことで、春のようなあったかな心地に触ていたのだろう。

だからこそ、桜の塩漬けのようなものが、今もなお、残っているのだろう。

あったかい。

 

 

(生の桜の葉をお茶に。見て楽しくするために、桜の塩漬けも)

 

 

今まで買っていたもの、いままで捨てていたものを

ちょっと作ったり、活用したりしようとするだけで、膨大に増える仕事と作業。

その大変さと共に感じる、

自然と共に生きてきた、今まで蓄積されてきた人類の智慧への畏敬の念。

いつでも変わることなくめぐり、恩恵を惜しみなく分け与えてくれる、自然への感謝。

すべてを活かし、循環させることができるのに

それをしてこなかった暮らしへを振り返るとともにわいてくる、切ない感覚。

 

 

(種まきは、満月の数日前に行う。農業は月の影響をみて行われてきた)

 

 

人間の文明は、何を得て、何を失ったのか。

そう問わずにはいられない。

 

 

(古代米はとてもパワーがつよい。現代人がこれだけを食べたら、おなかが下るくらいのパワーだそう)

 

 

 

(庭に生えていた雑草「カラスノエンドウ」をお茶に仕立てた。野草は食べものだということの驚き。)

 

 

(自生していた野草、せり。腕いっぱいに抱えて、収穫。)

 

(八朔の天然酵母。捨てる予定の八朔の皮が持ったいなく、思い付きで作る。

パン作りは失敗の終わったが、愉しかった笑)

 

(黒豆味噌。同時に、小豆味噌もつくった。

3か月待つ間に、ちょっとずつ覗いて手入れして声をかける。

3か月が待ち遠しい。)

 

 

 

大自然とともに人間が紡いできた営み。

すべては循環する、という知恵。

 

 

(自然農では草マルチを使う。この草に集まる微生物が土を創る。土が作物を作る。人間は土の化身とも言われる)

 

 

最初に、この草マルチの話を聞いて、畑にまいたとき、

実は、奥の方から、感動がこみあげてきた。

すべてがなんの無駄もなく循環し、実りをもたらす。

それには、なんの無理もなく、なんの矛盾もない。

「自然とは、

分断ではなく、循環であり、調和なのだ」と、

マルチの草と自然から、教えてもらった気がした。

 

 

(地球への負荷を減らすために取り組んだ、ゼロウエイストの一貫。マイマグ、マイ箸)

 

 

心理や真理のセッションを長く提供してきた中で

お金への人類のとらわれとは何だろうという疑問から始まり

社会問題

政治問題

様々なものを自分なりに学び、微力ながらとりくんできた。

新型コロナでの自粛によって、これまで悲鳴を上げていた社会システムが

本当にこれほどまでにもろく、危うくかったのかが分かった。

また、その社会システムに、これほどまでに自覚なく、

依存してきたのだということも。

 

 

(ある日の車窓から。たった数時間で関西まで行けてしまう便利さを、何となく不思議に思う)

 

 

新型コロナウイルスの影響で、これからの世界は、今までのようにはいかない。

そんな風に感じている人も多いと思う。

これからの世界は二つに分かれていくと思っている。

一つは、今までのように、経済ありきの暮らし。

一つは、経済ありきの活動から、自立をしていこうという暮らし。

 

 

(新型コロナウイルスの影響で経済活動をしなくなった中国の大気汚染の変化を示す図)

 

 

私たちの社会は、目の前に気候危機を突き付けられても、いくら自然災害に見舞われようと

経済活動を止めることができなかった。

新型コロナの世界的自粛は、図らずも、これをいったん強制停止することになった。

いままで汚染されつくされていた世界中の景色が美しくなっていく様をみて

感嘆した人も多いだろうと思う。

そのような人にとっては、二つ目の道の方がよりリアルに感じられるのではないだろうか。

 

 

(夜明け前)

 

 

いま、世界は、とてつもなく混沌としている。

生きている間には見たことのないほどの世界的な混沌ぶりだ。

でも、そのなかから、何かが生まれてくるような心地もある。

泥中の蓮のごとく。。。

 

 

(ある日の満月)

 

 

これからの新しい世界に向けて

より一層丁寧に、

より一層楽しんで、

より一層静けさを携えて、

より一層静かに世界を観て、

過ごしていくこと。。。

 

 

(弱り切っていた薔薇から咲いた、かぐわしい一輪)

 

 

いまのところ、それが、「創れるものは、創ってみる暮らし」から得た、

新しい世界への、ヒントだと思っている。

 




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