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2020/8/6 広島原爆の日
この、人間の愚かしさによってなされた戦争がもたらした、苦い苦い教訓、先人の血の涙。
慰霊碑にきざまれた「過ちは二度と繰り返さない」という言葉は、なんとも重い。
生まれも育ちも広島で、爆心地から二キロのところにずっと住んでいる。
被害がひどかった中心部の話はきいたことがあるけど、
ずっとすんでるこの地域は、原爆が落ちたとき、どのような景色が広がっていたのか、話をあまりきいたことがない。
いまは亡き父が被曝したときはまだ二才。そんなに小さいのに、屋根がふっとんだのだけは覚えていた。
叔母たちは幼稚園、小学生、中学生のときに被爆した当事者であるけれど、被爆体験はあまりきいたことがない。好んで話したくない内容であったことはわかるので、こちらから話を深くきいたこともなかった。
ただ、目の前の旧国道は、被爆したひとであふれ、母校の小学校には死体がたくさん積まれていたということだけは聞いていた。
ふと、この地域で被曝した方たちの体験をしりたくなり、ネットで検索したら、いくつかでてきた。馴染みのある地域だから、体験談からの想像がとてつもなくリアルだ。
印象的だったのは、
戦時中は、母校の校庭には、さつまいもがうえられ、飢えをしのぐための大切な場所になっていたこと。
やはり、焼け焦げた人たちで、道や広場はうめつくされていたこと。夕方になるほど人が増えていき、黒い雨がどしゃ降りにふったこと。
ご近所さんが被爆していてだれともわからない姿になって、なんとか帰ってきたが、臨時につくった庭先の桟敷布団のうえで、翌朝にはなくなってしまったこと。
やっと帰ってきた自宅で、子供の背中に無数に刺さったガラス片を、母親が泣きながら抜いてくれたこと。
市内最大の防空壕が小学校の裏山につくられていたこと。原爆のあった日は、窓ガラスがふき飛び、登校していた児童は血を流し、なきながら防空壕にとびこんだこと。
学校が軍部につかわれるようになり、原爆のあとは患者の治療のためにつかわれたり、校庭では多くの人の火葬をしたこと。
その後の勉強は近所の神社やお寺なので、行われたこと。
めをそむけたくなる、とてつもなく重い話の数々。
この景色と暮らしのなかに祖父母、叔母たち家族、地域の方々のご家族がいたこと。また、被害にあったかたの様々に、震える思いで心を寄せる。
戦争はいけない。
権力の暴走も許してはいけない。
人間の愚かしさを自覚していなければならない。
それらを自覚し、平和への祈りをまっすぐに寄せ、平和への意志をあらたにすることが、わたしにとっての75年目のヒロシマでした。
亡き方々に、鎮魂の祈りを捧げます。
『安心してください。
過ちは二度と繰り返しませぬから。』
ずっと、そう言える、日本でありますよう。
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