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「抵抗すること」は、「あるがまま」の自然の流れに対して「否」とする動き。
あるがままでOKなら、するりするりと抵抗なく流れていくが
抵抗するなら、当然、するりするりとはいかない。
問題、困難、囚われ、苦しみ・・・あらゆることが起こる。
それに対するアプローチはいくつかある。
一つは、心理的にどんな仕組みや感性でそうなっているのかを知ること。
これはある程度の見通しが立つので、すっきりしやすい。
ただ、その時は「これだ!」と思った原因と思しきものは
ちょっとタイミングをずらして、別の事に姿を変えていくので
「あのとき、原因がわかったはずなのになんなんだろう」という新たな疑問に出会う。
そうならずにスッキリ解決となる場合もあるだろうけど
たいていの場合は、何らかの形でくりかえし見つめていくしかない。
終わりがくればいいのだけど、なかなか終わりは来ないので
自分にとって適切なところで良しとするのがいい、のがこのアプローチ。
一つは、この抵抗ずっとあるものではない、現れては消えていくものだという
諸行無常な見方で見続けること。
そのように見ていくと、抵抗はほどなく収まっていくことに気づく。
一生懸命どうにかしようとしなくても、勝手に消え去っていくのが理だとしる。
要は、ほっとけばいいのだということを、洞察によって理解する。
これは、初期の内は、抵抗に引っ張られて上手くいかないと感じることもあるだろうけども
習熟していくと、抵抗に関しては、とても有用なアプローチとなる。
一つは、この抵抗はだれにおこっているのか?と問い、その答えを静かに待つこと。
自我のわたしに起こっているのが抵抗であり、真の私には起こっていない、ということへの洞察。
ポイントは、答えを静かにまつ、というところ。
ここで、明らかな言語的答えが出てくるならば、それは答えではないからだ。
静かに待つことによって、おのずから明らかになることを待つこと。
途中で投げ出さず、粘り強く行うことが肝要。
言葉ではない言葉があきらかになったなら、抵抗への抵抗も消え去っていく、アプローチ。
そして、仕上げのひとつ。
抵抗が起こっていること、も、あるがままであるという理解。
抵抗は、「私(自我)に起こっている抵抗というストーリー」として、「あるがまま」に流れているにすぎない。
抵抗もよし。
あるがままもよし。
そうなれば、何の差があるだろうか。
その静けさに落ち着くのなら、もう
あらゆる言語が意味をなさない。
よって、抵抗もあるがままも、意味をなさず
静けさに憩うのみとなり
いとおしいだけである。
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